ロックにおける究極の捉え方は、ミュージシャンそれぞれ?
ビートルズのCDが新しくデジタル・リマスターされたそうで、たいへんめでたい。
なぜ今ビートルズ?という問いに、最近CDが売れないから、これを契機に、という業界の話もあるのかもしれないと一瞬思ったりするのだけど、ビートルズはリマスターが出なくてもずっと売れ続けるだろうからあまり意味ない揶揄かも。
*参考*「CD文化からコンサート文化へ Jポップは「聴く」よりも「観る」時代」
http://netallica.yahoo.co.jp/news/93031
リマスターできる技術や環境が整ったからと見なした方が自然か。
(もうちょっと深読みしたら、近年のポップ・シーンはあまり面白い曲がない、というアンチ・テーゼか? 全然関係ないけど、演劇界では、上演作品が煮詰まってくるとシェイクスピアの戯曲が取り上げられることが多くなると聞いたことがある。なんだか、そういう類の原初帰りのような事情か?)
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ビートルズは、しかし、あまり私は得意ではない。
http://tomoogi-poem.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_6be3.html
http://tomoogi-poem.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_1790.html
高校生のときに、やたらとビートルズに詳しい友人がいて、「~という曲の出だしはアメリカ版とイギリス版では違う」云々とやたらと細かいことを言うのだ。
だからかビートルズ・ファンは細かいという先入観がある(笑い)。
また、私にとってロック体験とは、小学六年のときに大阪フェスティバルホールの試写会で見たレッド・ツェッペリンの映画であって、未だにそれが基準となってしまっているため、ビートルズはどちらかというとポップス的に聞こえてしまう、というのもある。http://gyao.yahoo.co.jp/player/00597/v07580/v0758000000000524584/
もう1つは、私が洋楽というものを意識したのが70年代後半で、その頃ジョン・レノンは子育てに忙しくて音楽シーンにはほとんど出て来ず、一方、ポール・マッカートニーはウイングスを率いて活躍していた。だから、ウイングスの曲がビートルズより馴染みがあった。
実際、ウイングスでのポールはとてものびのびやっているように見えた。奥さんがバンドの一員であったり、才能はあるがあまり出すぎないデニー・レインとのコンビネーションも良い感じに見えた。
http://tomoogi-poem.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/the_moody_blues.html
http://tomoogi-poem.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_79f3.html
しかし、ビートルズ時代のポールとジョンの関係は、前半はいざ知らず、後半はなんだかぎすぎすしているように見え、そういう部分を避けて見ていたためか、ビートルズの全てのアルバムを聞いたのはかなり後だったように思う。
映画『レット・イット・ビー』を見たのもだいぶん後だったが、やたらと張り切っているポールとやる気なさそうなジョンの対比が変に気になったりした。
そんなこんなで、ビートルズを語るのは、私にはなかなか難しい。
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閑話休題。物事の究極みたいなものがあったらそれはなんだろう、とたまに思うことがある。
レッド・ツェッペリンの『天国への階段』では、ロバート・プラントが「それ」に対して何度も
it makes me wonder
なんだかよく分からないなあ。
と歌っている。しかし、そのよく分からない何かに少しでも近づこうと彼らは悪戦苦闘しながらも、幾つかの偉大な音源を残した。だから、レッド・ツェッペリンの足跡は、私にはとても分かりやすくストーリー化して捉えやすい。http://www.ctejapan.com/message/m35.html
しかし、ビートルズはなんだったのか。全てのアルバムを前にして思うのは、彼らは音楽をメインとして、その究極のものは、色んな風に捉えることができ、ありとあらゆる表現が可能だと示したことだったのかもしれない。そんなメッセージが伝わってくる。
ローリング・ストーンズは何なのだ?その究極のものを永遠に転がし続けることができると表現しているのか?
ボブ・ディランはなんだろう。その究極のものに座って歌っているのだろうか。
エルビス・プレスリーは、その究極の上で歌っていたから、腰や足がやたらと動いていたのかもしれない?!
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